その日は、灰色の雲が頭上へのしかかり、遠くの山々は煙ってぼやける暗欝とした天気をしていた。
予報通りに、午後になると雨足は強まり、傘をさし式場へ駆け込む喪服を門に掲げられた「内藤秀明様 葬儀会場」と記された看板が出迎えていたのだ。
地元の名士として知られた彼は先日帰らぬ人となった。
町内会のまとめ役、消防団に在籍しながら尽力した経緯もあり、生前、親交のあった者たちがつめかけていた。
会場を見渡せば、数百の席はすでに埋まりつつあり、彼と面識のない人物であっても、その人望を計り知る事が容易にできるのではなかろうか。
今、黒色の傘をたたんで、会場に駆け込んだ中年の男もそうであった。
山根健造(やまねけんぞう)という名である。
彼は10年ほど前、電車内で痴漢を働いていた。
当時、2年以上にもわたり、何人もの女性へ痴漢を働きながら、これが天賦の才能か、強運か、いっこうに捕まる気配なんどなく、上手くやり過ごしてきたのだ。
それがある日、ついに御用となり、当の女性に駅員へ突き出されたのだ。
その際、女性との間へ入り、示談へ持ち込む手助けをしたのが内藤であった。
ただ心残りがあるとすれば、捕まった際、終始「自分は触ってなどいない。」と嘘を言い張っていた事であるか。
山根の温厚そうな面構えもあってか、その言葉を内藤は信じたに違いない。
多少の後ろめたさを感じ、いつか打ち明けた方がよいのではと思いつつ、恩人には、終(つい)ぞ本当の事を伝えられぬまま、今日の日を迎えたのだ。
しかし、よくよく思うてみれば、人間の心とは不思議なものである。
恩義のある人のであるが、心の底では「世の中には世話好きもいるものだなぁ」といった身勝手な感情がなかったわけでもない。
喉元を過ぎればと言うが、内藤への感謝も感じつつ、しかし、同時に汚泥のような欲望もない交ぜになり、自身の腹の中深くに渦巻く。
月日が経つにしたがい、次第に、その腐ったような性が、頭をもたげてくるではないか。
今となり、出世した山根は、痴漢などと危ない橋を渡らずとも、自身の欲望を吐き出す術を、金銭という形で持ち合わせてはいるが、果たしてどうだろうか。
仮に、自由に使えるお金が持てなければ、やはり、痴漢を繰り返す昔の自分に、躊躇いもなく戻っているのではなかろうか。
「しかし、これで一区切りかな…。まぁ悩んでも仕方のない事ではあるが…。」
山根は、独り言をつぶやき苦笑を交えながら、受付のテントへ進んだ。
そこで、胸の香典袋を出しながら、その手が止まったではないか。
ハタと目に入った美しい女性に、思わず息をのんだのだ。
年齢は、二十歳を少し過ぎたふうであろうか。
艶やかな黒髪を後ろで束ね、物静かな慈愛と気品を睫毛に宿し、彼女は柔和に微笑んだ。
「足元の悪い中、お越しいただきありがとうございます。」
色づくさくらんぼのような唇は絶えず、弔問客への、お詫びと感謝を繰り返すのだ。
彼女の特筆すべき魅力はそればかりではない。
喪服の上をなぞった隆起のなんと挑発的な事か。
厳(おごそ)かな場所であるゆえ、地味な礼服を選んだ事は想像に難くないが、それでも覆いきれない女体の主張が顔をのぞかせていた。
山根は記帳しながらも、股間がググンッと威を増し、熱を帯びてくる様を感じた。
(内藤さんの葬式に来て、興奮するなんて、彼とは浅からぬ縁があるのかもしれないなぁ。へへ…。)
会場へ入室する山根の脳裏をよぎるのは、やはり10年前の痴漢の一件なのだ。
(あの時も、こんな燃えたぎるような衝動だったなぁ)と、雨粒のかかった頭を拭おうと手をやれば、薄くなりほとんど地肌の露呈した頭部に月日を感じざるを得ない。
今年、山根は47歳を迎えるのだ。
10年前は、もっとフサフサと髪があった。
女性との和解が成立した後、内藤宅を訪れた際などは、正装に身を包み、普段、縁などない整髪料を付け、深々と頭を下げた記憶も昨日のようである。
と、その時、山根は受付の女性が誰であるかを思いだした。
足を止めて振り返り、再度、彼女を見たが、面影があるのだ。
内藤秀明の娘ではないか。
たしか、佳澄(かすみ)といった記憶がある。