「ええ――ッ!なんで先に言わなかったのよ!」
弥栄子の叱責が飛んだ。
4時間目終了後、女子トイレで弥栄子が愛の土汚れを払っていた。
その時、授業前に隣の男子トイレから片山愛を噂する話が聞こえてきた事を、今しがた打ち明けたのだった。
「今思えば、山田の声だった。」
愛の表情はひどく沈んでいた。
「先に言っておいてくれれば、警戒の仕方も違ってくるでしょ!?」
「でも、その時は、こんな事になるなんて…。」
時間を巻き戻せるわけではなく、愛はそれ以上弁解しなかった。
「それじゃ、午後は警戒人物が増えるわね!」
昼休憩後は、運動会に向け、全クラスの合同練習がある。
そのまま、着替えをせずに、給食を食べ、午後も再び運動場に出る予定になっているのだ。
「明日は休む…!だって…。」
その時だった。
弥栄子が愛の言葉を遮り、「しッ!」と言いながら、口元へ指を立てた。
すると、またもや隣の男子トイレから話声がするのだ。
「何?」
愛は小声で聞いた。
「今、隣で愛の事話してた。」
二人は注意を仕切りの向こうへ寄せた。
「作戦!大成功!!」
その言葉の後に男子トイレでドッと笑いが起きた。
「思わず、オレ見とれちゃったよ!片山の乳!」
「ああいう見事な動きをするもんなんだね!」
男子が喜々として話している。
「オレのファインプレーあってこそ、乳モロ出しだからな!」
そう自慢げに言うのは、確かに山田の声だった。
「あのヤローッ!やっぱりわざとだったのね!」
弥栄子が眉間にしわを寄せた。
「や、弥栄子…。」
愛がなだめに入るが、弥栄子の憤りは収まらなかった。
今日だけは、なるべく問題を抱えたくない。
愛はそう考えていた。
今日はあと、5・6時間目だけである。
穏便を望む愛の先に波風が立ちつつあった。
給食後、5時間目が始まると、3年生全学級が運動会の予行練習のため校庭に集った。
今年の3年生のマスゲームは、組み体操である。
(体操中に愛に恥をかかせるわけにはいかない!)
弥栄子は親友へ注がれる目を警戒していた。
幸い、山田は遠くにいる為、4時間目のような悪戯はできなかったが、里崎は立場上、生徒たちの間を巡回しながら指導していた。
しかし、この時間だけに限って言えば、里崎の視線は愛を向く事はなかった。
他の先生の手前もあるのだろうか。
(おかしいな…。)
弥栄子は里崎の動きを視界の隅で頻繁に気にしていた。
その時であった。
6人一組で組むピラミッドに、体系が移行した。
まず、四つん這いになり、3人が一段目、2人が二段目、最後の一人が3段目になり、三角形に重なる。
愛はその一段目にいて、弥栄子が同じ組の二段目にいた。
周囲にばかり目が巡り、注意が散漫になっていたのだろうか。
一段目にいる愛の背中に着く手を滑らせ、弥栄子の体勢が崩れてしまったのだ。
それが原因となり、最上段にいる人も含め、ピラミッドが大きく崩れた。
「きゃッ!!」
一瞬、女子生徒たちの悲鳴がグラウンドに響いた。
「どうした?大丈夫か!?」
それには、3年2組の出来事という事もあり、里崎が心配そうに駆け寄ってきたのだ。
最上段にいた生徒は、肘を少し擦りむいただけで大事には至らなかった。
その場の処理の為に、全体の流れが止められた。
「す…すいません。右手が滑って…。」
弥栄子は原因を作った張本人として、里崎に謝った。
しかし、里崎の注意は、愛に向かったのだ。
「片山!」
「え…?あ、はい。」
「一番下にいるお前が動くと、上が手を滑らせてしまうぞ!しっかり支えてやらないと!」
不意を突かれたのか。
愛も申し訳なさそうな表情で頷いた。
しかし、それこそが里崎の画策であったのだ。
「片山は、ちょっと柔軟が足りないんじゃないか!?後で補習をしよう!放課後、第二体育館に来なさい!」
第二体育館とは、新設された第一体育館が出来るまで使用されていた体育館である。
第一体育館ができてから、名称の頭に“第二”の文字が付き、第二体育館と呼ばれるようになった。
今は、ほとんど授業では使われていない。
規模も小さく、需要がないのだが、雨でグラウンドが使用できない時など、複数のクラスが体育館の使用で重なったりする時など、使用が限られていた。
(え、ちょっと?愛と二人っきりで、里崎は補習するって事?)
弥栄子は突然の事で面食らった。
いつも、叱責の矛先は弥栄子の方に来るのに、今日に限って愛を指すのだ。
「せ、先生!ちょっと待ってください。」
弥栄子は里崎に詰め寄った。
「愛は関係ありません。私が手を滑らせたのんです!」
その場を去ろうとしていた里崎に強い口調で言った。
それを受け、振り返る際、僅かに里崎が困ったような表情をした。
(…!?…やっぱり!)
弥栄子の中の疑念が確信にかわった。
里崎は愛に強い興味を抱いているのだ。
そして、二人っきりになれる場所へ引き込もうとしている。
他の目を気にしてか、里崎は、一度、周りを一瞥した。
「それじゃあ、新江も補習だ!二人とも残っていなさい!」
そう言うと、里崎はぷいと正面を振りかえり、元の場所へ戻っていった。