〜予防接種〜

7月2日。
この日は予防接種の日であった。
K小学校の体育館は、各クラス男女が長い列を作り、混雑していた。
3年2組の番が近づいてくる。
「やだぁ!私、お腹痛くなってきた。」
友人の新江弥栄子(あらえ やえこ)は、嫌悪からか腹部を抑え、その声は萎えていた。
「大丈夫だよ…!針を見なきゃチクッ!とするだけし…!怖くないから!」
片山愛(かたやまあい)は、弥栄子の背中を押しながら、一歩、列を進んだ。
「なにより病気が発症すればクラスメイトにも移るじゃない!迷惑でしょ!」
愛は殊勝な表情で、友人へ説教を並べた。
普段から気まじめな性格の愛は、遅刻はおろか、忘れ物も皆無であった。
まさに優良児。
教室の移動なども5分前の行動をこころがけ、周囲の先生方からの評判も良好であった。
「今日、仮病でも使って休めば良かった!」
「それでもダメだよ。申し込んだら、結局、後で受けなきゃならないんだから!ふふ…ッ!」
愛は弥栄子の、まるで幼稚園児のように聞きわけがない様子に、思わず噴き出して笑ってしまった。
「やだ!笑う事ないじゃん!」
弥栄子がちょっとだけ機嫌を損ねたのだ。
その時であった。
「こら!そこ、何しゃべっている!」
二人の横に立ったのは、担任教諭の里崎勲(さとざき いさお)であった。
体育教師である彼は筋肉の隆起をまとうガッチリとした体躯で、組んだ腕には、針金のような剛毛がビッシリと生やし、それは猛獣のような威を伴っていた。
彼が太い眉を引き攣らせ、二人を睨んだ。
「前を向いて並びなさい!」
気が付けば、弥栄子の前は進み、人3〜4人分のスペースが出来、後ろが詰まっていたのだ。
「す…すいません。」
話し込んでいた二人は肩をすくめた。
しかし、里崎が叱責したのは、弥栄子の方だけであった。
彼女の表情からも、なぜ愛が怒られないで自分だけが…。という不満が窺えた。
たしかに、愛は前を向いていた。
それは弥栄子が愛の前にいた為で、会話のために後ろを向いた格好になった。
二人は同罪のばずであった。
それで怒られたのが、弥栄子だけでは納得がいかないのだ。
しかし、思い返せば普段の態度からか、愛は里崎にお咎めを受けないケースが多かった。
なぜだろうと、弥栄子は思考を巡らせる。
(先生に好かれている!?)
愛の几帳面な性格を敬遠する男子は多い。
しかし、それと引き換えに愛の可愛らしい容姿には定評がある。
後ろでひとまとめに括るポニーテールは、愛が歩く度に揺れ、魅惑的なうなじが背後からの視線を惹き、そして、大人をも魅了する綺麗な二重瞼は、女子の羨望とも言えた。
(男子が愛に媚び売るのは見た事あるけど、大人もそうなのかしら?)
一瞬、そういった考えが過ったが、まさかと思い、弥栄子はそれ以上考えるのを止めた。
チラリと愛の方を瞥見するが、愛は特に気にはしていない。
と、言うより気付いてはいないふうである。
(まあ、いいか!こういう性格の娘だもんね。)
弥栄子の親友は、学校での生活態度は真面目であるが、男心や色恋沙汰には疎い面は否めなかった。

気が付けば注射は終わり、痛みは残らなかった。
「ほら、大丈夫!」
声をかけてきたのは愛であった。
弥栄子は俯いていた顔を上げ、愛に笑みを返した。
「あはは…ホント。」
本当は考え事のせいで痛みを感じなかったが、それを愛に言うのは止めておいた。
(きっと自分の気のせいね!)
二人で、針の刺さった場所をガーゼで抑えながら教室へ帰った。

愛が自宅に帰ると、ちょうど外出の準備している両親と出くわした。
「どうだった?予防接種!」
「なんともなかった。」
そう言いながら靴を脱いだ。
以前からの予定だが、この日から一週間ほど両親は揃って海外に旅行へ行く事になっていた。
学校があるゆえ、愛は同行できないが、それでも日頃からの労いもこめ、夫婦水入らずで楽しんできて欲しかった。
「食材なら冷蔵庫に買い込んどいたから!」
母親が耳にイヤリングを留めながら言う。
「わかってるって!自分で何か作って食べるから!」
「それから、寝る時は戸閉まりの確認だぞ!」
父親の弁であった。
「わかってますって!」
愛は二人の背中を見送ると、玄関のドアを閉めた。
普通の家庭なら、子供の世話を優先させるが、愛の両親は子育てに楽観的であった。
(一週間、一人か…。悪くないかも!)
愛自身もそう考えていた。


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