冬。
前日まで降り続いた雨が止んで晴れ間が見えていた。
今日は土曜日だというのに、早朝から外が妙に騒がしく、剛は何事かと玄関のドアを開けた。
すると、隣宅のドアが開け放たれ、数人の男性が荷物を運び出していた。
その後に続き菜々子が出て来ると、剛に気づいた。
「あら、剛くん。おはよう。」
最近は見なくなったが、菜々子はセーターにジーパンといったラフな格好だった。
髪もセミロングをショートに刈っていた。
「ごめん…。うるさかったかな?起しちゃった?」
表情の冴えない剛に菜々子が悪そうな顔をした。
しかし、剛の注意は、菜々子の家の事にあった。
「菜々子お姉さん…。荷物どうするの?」
「う、うん…。お姉ちゃんね、引っ越す事になっちゃった。」
剛の表情が菜々子にも映ったようだった。
「引っ越すって、どこへ?この近く?」
菜々子の表情はますます曇った。
「ずっと、遠く…。お姉さん、実家に帰っちゃうの。」
「なんで?学校は?もう卒業するの?」
「ううん。卒業しないんだ。学校辞めちゃうの。」
それを聞くや、剛の胸はドキリと痛みに打たれた。
脳裏に過るは、いつか佐々木に見せてもらった疑惑の記事であった。
「辞めてどうするの?なんで辞めちゃうの?」
菜々子は優しく微笑んだ。
剛の問いは、菜々子の穏やか過ぎる眼差しの奥に、答えがあった。
「あ、そうだ。剛くん朝食まだ?よかったら、お姉ちゃんの家で食べていく?」
その申し出に剛は即答で頷いた。
菜々子宅に上がるのは久々であった。
部屋の荷物は半分以上片付いて、広々と感じさせられた。
それでも、奥から片している為、手前のダイニングは手つかずで生活の名残りがあった。
「月曜日まではこっちに居る予定だから、生活用品は最低限残しておくつもりなの。」
菜々子は手作りのサンドイッチを冷蔵庫から出し、テーブルに置いた。
「好きな所に座って。」
そう言いながら、ミルクとデザートにリンゴを取り出し、菜々子は皮を剥き始めた。
「僕、お姉さんの所で食べるの久々だな。」
剛は嬉しくなってつい口に出してしまった。
「本当ね。昔はよくここで食べていたのにね?」
菜々子の言葉には失ってしまった時間への惜別があった。
まるでいつから変わってしまったのだろうと、自分に言い聞かせているようでもあった。
ブラウン色の貌が僅かに、うな垂れる。
3年前、田舎から右も左も分からず、上京してきた彼女には、もう都会の色が染みついていた。
「剛くんも大分大きくなったわね?その分、お姉さんはおばさんになっちゃった。」
菜々子はリンゴを皿に盛り、剛の前に座りながら苦笑した。
「ねえ、剛くんは大きくなったら、何がしたい?」
「分かんないよ。先の事なんて…。」
「どんな人がお嫁さんになるんだろ?きっとお姉さんよりも綺麗な人ね!」
彼女の言葉の裏には、剛への母性的な愛情と自身への呵責が見えた。
「そんな事ないよ。お姉さんは綺麗だよ。」
その時、帰ってきた満面の笑みが、剛の見た菜々子の最後の笑顔であった。
翌週、月曜日は祝日で学校は休みであった。
朝、剛は菜々子を見送ろうと、隣のベルを鳴らした。
しかし、菜々子は出てこなかった。
「おい!剛。何してるんだ?」
すると、玄関のドアから父親が顔を出し呼びとめた。
「今日、菜々子お姉さんが、引っ越す日なんだよ!」
しかし、父親の表情は訝しげに曇る。
「菜々子さんは、昨日帰郷したそうだよ…。」
剛はキョトンとしたまま、視線は父から離れなかった。
「菜々子さんがなぁ、剛に会うと別れが辛くなるからって、土曜日の晩に挨拶にきたよ。よろしく伝えておいてくれって言っていたよ。」
剛はその日の出来事はよく覚えていない。
晴れた空が黒く見えた。
木枯らしが吹き、冬の到来を本格的に告げている。
部屋の中から、煽られどこかへ流れてゆく枯葉が見えた。
「今日は、外は寒そうだなぁ。」
すると、父親の言葉を聞いた剛は突然立ち上がった。
(そういえば、菜々子お姉さんも故郷の冬は寒いと言っていた。)
秋田県出身だと聞かされた記憶が手繰られ呼び戻った。
(秋田ってどこだろう?)
本棚から地図を取り、広げると、なんと東京よりもずっと大きかった。
「秋田の冬は東京よりも大変だぞぉ。」
息子の胸中を知る父親が地図を広げる剛に笑いながら言った。
―ねえ、剛くんは大きくなったら、何がしたい?―
菜々子の声が耳を掠(かす)めた。
菜々子の笑顔を思うと、雲の切れ間から微かな薄日が差したような気分になれる。
「そうだ!もう少し大きくなったら、きっと菜々子お姉さんに会いに行くよ。」
剛は地図の向こう側へ呟いた。
完。