東京某所のアパートの一室に綺麗なお姉さんが引っ越してきた。
5階建てのそれは、2DKの造りをし、一人暮らしから新婚の夫婦、小さな子供を持つ家族が入居している。
佐々木 剛(ささき たけし:6歳)は学校から帰ってくると、自宅の隣のドアが開け放たれ、忙しく引越し屋さんが出入りし、荷物を運び込んでいた。
しばらく空き家だった305号室に新しい空気が流れ込んで目を覚ました様な活気を抱いていた。
その慌しい光景に圧され、剛が見入っていると、中から18・9歳になる女性が出てきた。
「こんにちは。」
彼女は剛を見ると、微笑み話しかけてきた。
彼女は肩から下げたタオルで額に滲んだ汗を拭った。
春先にしては暑く、日差しが彼女の横顔を射し、薄手のメイクの上に光る細かな雫の玉が並んでいた。
ロングの黒髪は後ろでアップに括られ、ピンク地のTシャツに短パン姿が剛の前に中腰になる。
「君、お隣の306号の人?」
「うん…。」
剛がおずおずと頷くと、女の人は掌を出し、よろしくと言いながら剛と握手した。
彼女は富岡菜々子といった。
秋田県の田舎から、大学進学の為に上京してきたのだった。
東京の雰囲気とは違った、透き通った清流を思う純粋を宿した瞳がニコリと笑ったのが印象的だった。
切れ長の目に奥二重の瞼に子供ながらドキリとさせられ、剛は胸が熱くなったのを覚えている。
整った鼻の筋がスラリと通り、形のよい薄ピンクの唇から覗いた歯は白く乱れのない綺麗な並びを見せた。
都会では見ない花が咲いている。そういった笑顔だった。
「富岡さん、これどこに置いておきましょう?」
そう引越し屋さんに呼ばれ、菜々子はその声に自宅の中へ戻っていった。
「それじゃ、またね!」
彼女の身体が消える間際、剛に向かって手を振り、剛もそれに振り返した。
剛の胸はドキドキと高鳴り、その音に全身が揺さぶられていた。
剛は鍵を取り出し、玄関を開けた。
ドアを閉めると外界からの雑音は断たれ、誰もいない室内に静寂が剛を出迎えていた。
剛に母親はいなかった。
彼が幼い頃、病気で亡くし、今は父親との二人暮らしである。
その父親の帰宅が19時頃であるゆえ、剛が帰宅する15時頃はいつも独りであった。
17時頃になると、玄関のドアをノックする音が聞こえた。
剛がでると、お隣のお姉さんが立っていた。
「ねぇ、剛君、お母さんいないかな…!?お姉さん、引越しのご挨拶したいんだけど…。」
「お母さんは居ない…。」
「いつ頃帰ってくるかな?」
「ううん…。」
剛は戸惑いながら俯き、言葉を選ぶ様に口を開いた。
「お母さんは、僕が死んじゃっていないんだ…。」
剛は元気を見せ、大きめな声ではっきりと言った。
それを受け、菜々子の表情がにわかに曇り、
「ごめんなさい!そうだったの…。」
と、殊勝な面持ちになった。
「お父さんは!?」
「いつも、晩の7時くらいに帰ってくる。」
そう言うと、菜々子は、またその時分に伺うからよろしく伝えておいてね、とだけ言い引き返した。
それから、彼女は約束通り、19時過ぎに再び訪れた。
その時分には父親が帰宅していて、父が玄関で応対した。
「今日隣に越してきた富岡です。」
そう、言いながら菜々子は何やら四角い包みの様な品を父に手渡していた。
それを剛は父親の背後から眺めていた。
「今後ともよろしくお願いします。」
菜々子の会釈に父親も
「いえ、こちらこそ。」
と頭を垂れ、一通りの礼節を交わした。
そうしながら扉が閉まる間髪に菜々子は剛に微笑んで「バイバイ!」と、手を振った。
剛も満面の笑みで振り返してドアは隙間を埋めて音と共に閉まった。
「なんだ?剛。もうお姉さんと友達になったのか。」
父親が剛の頭を撫でながら優しく言った。
我が子が物心つく前に母親を亡くしてしまった不憫を思うてからか、父親は剛が菜々子に懐く事に歓迎であった。
「うん!学校から帰った時、しゃべったんだ!!」
「お姉ちゃんの事大好きか。」
「うん。」
「そうか!美人なお姉さんだもんなぁ!」
「うん!」
元気にそう答える剛にとって、菜々子の存在は生まれたてのシャボン玉くらい綺麗で七色に滲む光に目眩すら感じた。
祖母ほど萎れておらず、同級生の女子程青くない。
その異性への憧憬に知らず知らずの内に剛は男を開花させていた。
「今度、お姉さんと一緒にご飯でも食べるか!」
「え?ホント?」
剛は目を輝かせた。
「今度お願いしてみようかな。」
父親は笑った。
しかし、その食事の機会は程なくして、そして思わぬ形で訪れた。
父親が通勤途中に事故をしたのだ。
剛が学校から帰ると、玄関のドアの前に見知らぬ男の人が立っていた。
彼は父親の会社の人で事故の旨を家族の者、つまり剛に伝えに来たのだった。
彼が言うに父は全治2週間程。
検査がある為、当分は家には帰れそうにないとの事だった。
その説明を玄関前の廊下で受けている最中に、菜々子が外出から戻った。
今にも泣き出しそうな剛を見かねて彼女は声をかけてきた。
「剛どうしたの。」
その声に会社の人は菜々子の方を振り返り、半身のまま軽くお辞儀をした。
「お父さんが…お父さんが…。」
そう嗚咽をもらしながら立ち尽くす剛を見て、菜々子は眉を潜めた。