日付の変わる刻。
宙空に影が走る。
瞳は住宅の屋根を点々と飛びまわり、市内の中心に座った大豪邸の屋根上へと着地した。
夜空には今日も漆黒が広がり、真円より一日欠けた月光が彼女を照らしていた。
「ここね…。」
そう見下ろす邸宅の広さは、一見何らかの公共施設ではないかと見紛うほど広漠であった。
瞳はベランダへ下り、窓ガラスへ円形の傷をつけ、くり貫いた。
その穴から手を回し、内の施錠を解くと、難無く中へ侵入を果たしたのだ。
「ここには誰もいないようね!」
室内に灯りはなく、普段使われている形跡が見受けられない事から、客室として使用されているのではなかろうか。
瞳は足音を忍ばせる。
そのまま廊下へと通じるドアに耳を着け、外の様子を窺うと、住人の往来や生活音はなかった。
「もう、寝静まったのかしら…。だとすれば、仕事がやりやすいのだけど!」
瞳はゆっくりとドアを開き、廊下へ出た。
前もって得た情報によれば、海原は一人暮らしであった。
離婚歴があるわけでもなく、なぜか、彼はずっと独り身である。
瞳はまっすぐに寝室へと向かう。
侵入した西の端の部屋から東へ、カーペットの敷かれた長い廊下を歩く。
「こんな広い豪邸に一人で住んで、逆に不便じゃないかしら?掃除とか大変そう!…まあ、これからは関係ないでしょうけど!」
瞳は周囲に目を配り、警戒しながら、目的の寝室へと辿り着いた。
耳を凝らせど、内からそれらしい音はない。
ゆっくりとドアを開く。
すると、室内の中央にバスローブを羽織った男の姿があった。
椅子に座り、体を窓側に向けている。
天井の照明は点けず、スタンドライトの優しい光の前でどうやら読書に耽っているらしかった。
時折、パラリ…パラリ…とページを捲る微かな音が聞こえた。
(なんだ…。起きていたのね。)
瞳は息を殺し、ピストルを手に取りながら、彼に1歩、2歩と近寄った。
その時だった。
「道端ですれ違うご近所…。寝食を共にする家族…。心で愛し合った恋人…。みな隣人が隠密だとは気付かない!」
男はまるで独り言でも呟くように言う。
「伊賀(いが)の女だな?」
男が語調を強め言ったその言葉にはっきりと瞳への指向性を感じ、彼女はビクリ!と身震いした。
伊賀とは、瞳が隠密として所属する組織の名であった。
その隠密こそが、現代の“くの一”として存在しているのだ。
(え…?一般人が伊賀を知るなどありえないわ!)
ゆえ、伊賀の名を知る者は、同じ隠密に他ならないのだ。
つまり、“伊賀”と敵対をなす隠密、“甲賀(こうが)”しかない。
海原は背を見せたまま、顔を瞳へ向けた。
「おお!これは、これは…容姿端麗。お美しいレディで…!」
カーテンは開かれ、明るい月の光が部屋を満たしていた。
二人はすでに互いの姿がはっきりと把握できる距離で対峙していた。
海原の視界には、グレー色のスーツ姿の女がいる。
上着の開襟からは純白のブラウスが覗き、ミニのスカートから伸びた美しい両脚が月光に照らされている。
「あ…あなたはッ!?」
絞り出したような声で、咄嗟に銃口を男に向けた。
「もうわかっているだろう!?甲賀だ!」
男は不敵に笑った。
「そして、今日を境に月と太陽が入れ替わるのだ。」
そう言い、瞳へ向ける眼光がギラリと光ったのだ。
すでに、彼との間合いに十分な手応えを得ていた瞳は、引き金にかかる指先へ力を込めた。
しかし、その瞬間、海原の姿が消えた。
「ええ!?」
気づいた時には、彼は背面宙返りのように瞳の頭上を舞っていたのだ。
海原は瞳の背後へ着地すると、懐から銀色の刃を出し振るった。
(気づくのが遅かった!!身を翻す暇がない!)
静寂を守る室内にぎゃひぃぃぃん!と金属の擦れる音が鳴った。
瞳は上着のスーツを脱ぎ、布地を張ると、刃の一閃を受けたのだ。
「なるほど!鉄線で編み込まれたスーツ地か!まるで鎖帷子(くさりかたびら)!」
椅子に座している故、気付かなかったが、この海原という男は非常に大柄な男であった。
標準的な身長の瞳からすれば、まるで山のように圧し掛かってくる重圧感がある。
海原は刀を持つ片腕により力を込めた。
すると、スーツを構える瞳の全身が圧せられ、遂には片膝を着いた。
「これは、頑丈な作りだな!羨ましい。甲賀にはない品だ。」
男は刃と対等を張るスーツへ目を向けていた。
「その昔、隠密の里は一つだった。しかし、思想、権益、価値観の違いより、1000年前に2つに分裂したのだ。それが伊賀と甲賀だ。」
「………!?」
男は隠密の歴史を語り始めた。
「伊賀も甲賀も、隠密自体が優れた身体能力と暗器(あんき)と呼ばれる隠し武器を使用するスタイルは変わらぬ。しかし、伊賀は科学技術の練磨を主とし、逆に甲賀は人間の身体能力を極限まで磨く事で隠密としての力を拡大させていった。しかし、時代は伊賀の繁栄を選び、甲賀は廃退の一途をたどった。ちょうど、戦において、剣術を始め、身体的な優位性が必要とされなくなり、銃火器等の科学兵器が隆盛を極めた頃だった。」
「だから…何だって言うのよ…!」
「とぼけるな!小娘!これは甲賀の復讐なのだ!」
「…ええ?」
瞳はますます、眉をひそめた。
「千年の時を超え、影が光を浴びる瞬間が到来したのだ。甲賀の力が伊賀の科学を超える!!」
男の軋轢がさらに増した。