〜車中〜

少年たちは小学生最後の夏休みを利用して旅行に来た。
柳瀬順平(やなせじゅんぺい)と志茂田太一(しもだたいち)を誘ったのは、橋本真(はしもとまこと)であった。
「うちのパパが一緒においでって!」
彼の父親の厚意で、友人二人を連れ、旅行に連れていってくれるというのだ。
恵比寿の一等地にビル社屋を構える父には金銭的に余裕もあるのだろう。
あるいは、息子へ良き思い出をプレゼントしてやりたいと思う親心か、特に息子の真は、来年中学受験を控え、進学と同時に彼らとは離ればなれになるのだ。
「もうすぐ海が見えるぞ!」
父が声をかえた。
車がトンネルを抜けると緑に囲まれた景色が一転、青い水平線へと変わったのだ。
空から降り注ぐ太陽が、キラキラと水面に乱反射し、いやがおうにも子供たちの心ははしゃぐばかりである。
「おじさん!まだかなぁ!?」
後部座席からしゃがれた声をかけたのは太一であった。
まん丸い顔に笑みを満たし、デブっと突き出した腹が彼の特徴。
ずり上がったTシャツの隙間から埋没したヘソを覗かせていた。
とても陽気な性格で、真からは、いつも太一の滑稽話を聞かされる。
「もうすぐだ!後、10分くらいかな!」
すると、彼はハンドルを切り、峠をなぞる道から脇へ入り、下りだした。
民家に混じり、湯気をまるでアドバルーンのように携えた建物が多くなってくるではないか。
開けた窓からは、硫黄の独特な臭いが車内に流れ込み、「ああ、なんだこの臭い!?」と鼻をつまんだのは順平であった。
「順平は温泉に来た事ないのかですか?あはは…!」
真は順平をからかって笑った。
土日の休日はいつもサッカーにあけくれ、泥だらけ。
それが順平であった。
体育は満点だが、それ以外の教科はからっきし、勉強漬けの真とは対照的な存在なのだ。真の知らない事を順平は知っているし、その逆も然り。
だからこそ、友達として“楽しい”と思えるのかもしれない。
「この臭いは、温泉の成分、硫黄の臭いですよ!」
真は眼鏡の鼻あてに指をそえ、さも博学であるかのように装った。
「おいおい!それは昨日お父さんが教えてやった事だろ!?」
「あ、言わないで!」
すると、車内に大きな笑いが起こった。
父の告げ口に真は赤面し、取り乱したのだ。
「大人が子供の会話に入るなんて、デリカシーがなさすぎます!」
格好をつけたつもりが、恥をかかされては立つ瀬がないではないか。
真は頬をふくらまし、ぷい!と外を向いた。
「さあ、みなさん、着いたぞ〜!」
そう言うと、瓦屋根が立派な大きな建物の前に車がとまった。
この一円では老舗と呼ばれる部類だろうか。
とにかく貫禄がある。
しなびた雰囲気の中にも行き届いた清掃が外観からも見てとれ、少年3人は感嘆した。
いや、太一だけは喜び勇み、いの一番にドアを開けるや、玄関に走っていったのだが。

建物は2階建てだった。
上空からの俯瞰ではコの字型で、奥行きがあり、部屋数は50〜60になるのだそうだ。
玄関を入ると仲居が出迎え、4人は西館の方へ案内された。
「温泉へは、裏口を出て階段を下りてもらいます。」
廊下を歩く間、仲居はトイレ、洗面所そして温泉の場所を丁寧に説明していた。
その間も太一が辺りをキョロキョロ物珍しそうに気にするではないか。
館内をすれ違う他の客に目を奪われては、身にまとう浴衣に興味をひかれる。
「ああ、オレ浴衣持ってきてないや!」
「ご心配なく。部屋に用意されていますので…。」
太一の挙動が面白く仲居もクスクスと笑いながら、微笑ましそうに視線を寄こした。
「この部屋になります。」
そう通され、部屋に入ると、いぐさの青い匂いに迎えられ、奥にある障子戸を引くと、窓から見える景色に圧倒された。
中庭があり、そこから裏の雑木林へと道が連なっていたのだ。
その向こうには海が望め、子供たちには格好の遊び場に映った。
「ねえ!あそこの海で遊べるの?」
太一の目が一層輝いていた。
「遊んでもいいけど…水着は持ってきていないだろ?」
「大丈夫だよ!水には入らないから!順平も真も海見たいよな!」
「…う、うん。」
すると、太一は二人を引き連れ、風のように部屋を出て行った。
「お〜い!夕飯までには帰ってこいよ!」
駆け去る3人の背中へ父が言った。


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