その日の晩であった。
9時くらいに入浴を済ませ、パジャマ姿のまま、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングへ行った時である。
テレビは、毎週日曜日にやっている映画が流れていたが、母親はそれには目もくれず、ソファに座り、手にした雑誌を熱心に見ていた。
すると、母親は彩加の姿を認め、唐突に「ねぇ、彩加…。」と声をかけてきたのだ。
それ自体は、特に変わった光景ではない。
しかし、母親は一度雑誌に目を落とし、再び彩加へと目をやったのだ。
「あなたのクラスにも、援助交際とかいって男性からお金をもらう娘とかいるのかしら…?」
援助交際とは、男性からお金をもらい性的は関係になる事であるくらいは、彩加も知っている。
もっとも最近では“援助”などと略して呼ぶ場合が多いが、いわば売春そのものなのだ。
まだ、男性経験のない、そればかりか異性との交際経験のない彩加には、同じくらいの年齢の女子が身体を売っているなどと、全く信じられない世界の話である。
学校は平穏にしか見えない。
もちろん、クラスに援助交際の事柄で、誰それに噂がたつ事などなかった。
「16・7歳の子供が売春して月に100万も稼いで、その使い道がカラオケやプリクラだなんて馬鹿げているわ。それも仲のよい友達と皆で使って遊んでいるって…。」
母親の話は続いた。
「それでも最終的には補導されたり…、でもこれは運がいいほうかもしれないわね。お金に釣られて行為そのものを撮影させて、後から後悔する娘もいれば、妊娠して全く誰の子かも知れないなんて事も多いみたい。」
彩加は母の話を、冷たいお茶を飲みながら、黙って頷いて聞いているだけだった。
そして、話が落ち着きそうなタイミングで口を開いたのだ。
「でも、そんなに気にする必要なないんじゃないかしら。」
すると、母親の表情が殊勝になり、彩加を睨むように向いた。
「もしかして彩加、あなた、そんな淫らな事はやってないでしょうね…。」
きつい口調だった。
何を勘違いしたのか、母親は娘に問うたのだ。
もちろん、疑っているわけではないのだろう。
むしろ、心配なのだ。
それが、親というものである事は重々承知できるのだが、ただ彩加の言いたかった事は、「私の周りの事は心配しないで…。」と言う事なのだ。
多少言葉が足りなかったかと、思いつつも、悲しく感じた。
そもそも、彩加は彼氏がいたとしても、肉体的な関係になる事はないと断言できる。
結婚するまで、操を捧げるつもりはないのだ。
保守的だが、清らかで強い意志であった。
あるいは、中学生の時、植え付けられた他人に対しての不信感のようなものが、心の奥に横たわっているのかもしれない。
ともあれ、文字通り真っ白な花嫁になるべく、17歳女子奮闘中である。
その頑張りが母親に見えないのはちょっと残念な気もする。
当然、恵美とは、この類の話は飽きるほど重ね、相手が苦笑するほどだった。
恵美自身は、彼氏ができれば、そういった深い関係もあり得ると言うが、それ以前に彼女はクラス女子でも平均より下の容姿であり、その言葉もいつ実現するか分からない。
「なんだかんだ言って、彩加の方が先に彼氏できちゃったりして…。」
専ら、恋の話は、恵美の決まり文句で締めくくられる事が多かった。
大丈夫、私の周りには、悪い娘なんて一人もないから。
彩加は自分に言い聞かせ、頷いた。
新学期が始まると、初日、掲示板には編成されたクラスの一覧表があった。
まず、彩加は自分の名前を見つけると、その教室のある、B校舎の3階にあがった。
教室には、前に黒板があり、その室内の後ろの壁にある掲示板には、また割り振られた席の案内があった。
彩加の席はちょうど窓際の列の真ん中であった。
ひとまず、カバンを席の机の上に置くと、彼女は周りを見渡した。
今日から始まる新しいクラス。
その雰囲気は、明るく、紗越しに差し込む光のように柔らかに見えた。
男女ともに積極的な交流が目につく。
今、互いに会話している多くは前のクラスで、築いた人間関係なのだろうか。
人間の和とは、すでに形が出来上がっていると、後から中に入りにくいものである。
彼女の胸中に一瞬、怖気づいたような弱気が魔をさした。
その時である。
「そう、クラス替えの日、最初に話かけてくれた人と仲良くなる…とか。」
昨日、恵美にかけられた言葉がエールとなり崩れそうな心を支えたのだ。
(そうだ、今日はまだ長いんだし、朝から諦めてちゃ一年がつまらなくなっちゃうじゃない。)
彩加は自身を鼓舞した。
だって、温かなクラスに見えるじゃない。
風は春うららかな温もりを持って、彩加の肌をなで去っていく。
「みんなきっといい人。」
そう口に出した時である。
春先によくある、突然、強く冷たい風が、一瞬突き刺すように彩加の横を抜けていったのだ。
おかげで、他の席ではあるが、机上に放られたままのプリントが床に散乱してしまった。
「あなたのクラスにも、援助交際とかいって男性からお金をもらう娘とかいるのかしら…?」
すっかり忘れていたと言ってもよい母親の言葉が、今、ざわざわ…と胸の中で、噴き出してきた。
なんだろ…?
平穏に見えるクラスの表層。
その下にはマントルのように、たかだが17歳には見えない強大な力のうねりが彩加を浸食する様がイメージとして溢れ、まるで不吉な予感のように感じた。
その時である。
「あなたが、倉持彩加さん…?」
そう声をかけられ、後ろの席を振り返ると、そこにはショットカットヘアをした一人の女子がイスに腰を落とそうとしていた。
「は…はい。」
「そうすると、私の席はここね。」
彼女は二コリと笑った。