修の手術は成功した。
しかし、心は晴れる事なく、あれ以来、なんだか香帆里にふられたような暗澹たる気分が拭えなかった。
その日は、手術の痛みが半分あって、ベッドから起き上がる事なかった。
起き上がろうとすれば、できたのかもしれないが、そんな気さえ湧いてこなかった。
定時に香帆里が様子を見にきたが、寝起きの合間である事も手伝い、ほとんど覚えていない。
「今日が入院5日目か…。」
さらにその翌日であった。
「術後の回復は良好なんだってな!」
枕元のカレンダーへ虚ろな目を這わせている時に、聞き覚えのあるダミ声に意識を呼び戻されたのだ。
気が付けば飯沼が傍らに立ち、修の顔を覗き込んでいた。
「え?」
「さっき浦賀が様子を見にきて、お前にそう言って笑っていたじゃねェか!」
(香帆里さんとしゃべっていた…?)
覚えていない。
「病はもしかして恋煩いの方かもしれないけどな!ぬははっ!」
「い、いえ!そんな!」
寝起きの冷や水に、眠気が一気に吹き飛んだ。
「隠すな!隠すな!顔に出ているぜ!浦賀香帆里が大好きですってな!男子たるもの元気が一番!」
そう言いながら、飯沼が修のベッドの隅に腰をかけ。
「オレも手術の経験があるが、翌日には、おちんこビンビンよ!」
この人らしい下品な言い回しも、久々に耳にしたような気がした。
「ちょうど、オレとお前の退院日が一緒らしいのよ!二人のお祝いを用意したのさ!」
「二人でお祝い?」
「ああ!退院前日に準備しているから、楽しみにしてろ!」
飯沼は不気味に、満面の笑みを浮かべていた。
…が、修にはどうでもいい事のように思えた。
「プレゼントは浦賀香帆里になりそうだ!」
(え!?)
飯沼の最後の言葉でその曇り空のような気持ちに大風が吹いたのだ。
“日付の変わった深夜2時に5F男子トイレの個室で待ってろ!”と約束の日の前日に、修は飯沼から伝言を受けた。
(前日っていいながら…今日が退院の日じゃないか!)
それが、なぜこうして、真夜中に起き、わざわざ男子トイレに身を潜めなくてはならないのか。
微かに煩わしさを覚えると同時に、飯沼の言った香帆里に関する事の意味を確かめるために、彼は病室を抜けだしたのだ。
深夜の蛍光灯は、壁面のタイルを照らしながら、昼間のそれよりずっと青白く不気味であった。
いつもは清潔で心地良さすら感じるトイレの空気がやけに肌に障るではないか。
「飯沼さん…どういうつもりなのだろう?香帆里さんがプレゼント?香帆里さんが何か物をくれるっていうのだろうか?」
修は便座に腰をかけ、その時を待っていた。
すると、廊下で人の足音がするのだ。
一つはスリッパの擦れる音。
だらしなさそうに、引きずって歩く様に聞き覚えのある音。
(たぶん…飯沼さん…だ。)
足音はもう一つあった。
コツリ…コツリ…と、靴のかかとを鳴らし歩く者。
ナースシューズの音である。
それも歩調に凛とした緊張感さえあるではないか。
(まさか…。)
それらが、揃って男子トイレに近づき、
「ほらこっちだ!廊下で、万が一誰かに聞かれでもしたらまずいからな…。」
男の声がそう言いながら、入ってきたのだ。
「もう今日が最後にしてください…。」
香帆里の声であった。
(飯沼さんと香帆里さんがトイレに入ってきた…?)
修の今居る場所は二人の密会予定場所だったのだ。
あるいは、飯沼が上手く言いくるめ、彼女を誘導したのか。
「最後の夜にしちゃぁ、つれない言い方じゃねぇか!?」
「一年半前、あなたが院内に振れ回った噂のせいで、私の人生は…!?」
修の心臓がドクリと大きく脈打った。
「そうだな…。へへッ!新米ナースの君に“長期入院の男はたまっている”って教えてやったのは、オレだっけな?…あれから随分と入退院を繰り返して、その度にお世話になっちまったけどな…!そのお乳に。」
自分などが、ここにいていいのだろうか?
修は事の真相に身動きもはばかられるような凍てついた空気をまとった。
なんと、香帆里は奉仕の地獄に突き落としたのは、飯沼だった。
「もう二度と噂を流さないで下さい!そのため…なら…。」
修にもおおよその話が飲み込めてきた。
香帆里は風評から逃れるために飯沼との話に決着をつけようとしているのだ。
香帆里の表情は見れないが、峻烈な口ぶりに彼女の意思の固さを見た。