〜心の価値観〜

慶介に気付くと途端に由香里の表情が歪んだ。
「なんで…?」
彼女はその後の言葉を飲んだ。
おそらく「なんで、付いて来たの!?」と続くのだろう。
自身を懊悩させる過去の汚点。
それを埋める為についた己への嘘と行為。
それらが、自身へ、聖剣のように光り輝き突き付けられた思いがしたのだろう。
「せ…先輩…。」
しかし、由香里と慶介接近を阻むように、久保田が身をのり出した。
「んだぁ?てめぇ!」
手にした餌でも奪われると思ったのだろうか。
眉間にシワを寄せ、その様相は狂犬のようだ。
その声に触発され、他の男も慶介を睨みつけた。
「ぼ…僕は…!」
慶介は気圧されまいと、踏ん張った。
ここで怯むと、由香里と出会えた事、共にした時間、すべてが水のように掌からすり抜けてしまうのだ。
「僕は、由香里さんに用があるんです!」
すると、久保田は背後にいる彼女へと一瞥向けた。
無言であったが、「彼氏なのか?」と問うた目をしてい、由香里もそれを汲んだのだろう。
首を振った。
「彼は、部の後輩なの!」
そう久保田に言い、それから慶介に、「ごめんね…。」と伝えたのだ。
帰ってくれという意。
しかし、慶介は動かなかった。
頑として由香里の言い分を突き返すような眼差しをした。
「はは〜ん!」
すると、久保田は手を顎にあて、目を細めて慶介を眺めるではないか。
「お前、由香里の事が好きなのか!?」
久保田はグイ!と前に踏み出ながら、慶介を睨んだ。
「そうだよなぁ…。由香里はカワイイもんなぁ。こんな娘を見てたら、男はみんなオチンポ勃ちっぱなしエブリディ!ヌシシシシ…ッ!」
続けながら男は語調を強めた。
「ところがどっこい!それを由香里がペロペロ癒してくれるんだからサイコー肉便器!どうだッ!?」
すると、後ろの男たちからもドッと笑い声が起こった。
その時、由香里の背後に立つ大原が、片手を彼女の尻へ伸ばし、ムンズリと鷲掴んだ。
スカートの端が襟のように持ち上がる。
それは、慶介の視界の真ん中で、人目をはばかる事なく行われた。
久保田もそれを見届ける慶介の表情を面白そうに眺めるのだ。
「なあ、由香里。この後輩とはどこまでヤッタんだ?ああ!?」
「違うの!木下君とはそんな関係じゃなくて…!」
そこまで言ったところで、大原の手は、由香里の上半身へと駆け上り、両手を脇の下から潜らせると、胸を、着衣の上からこれ見よがしに揉んでみせた。
ピンク色のシャツの上に幾重にもシワが走り、柔肉が誇張される。
由香里は思わず、恥ずかしそうに顔を伏せるが、男の手は構う事なく、胸の膨らみを揉みしだく。
「残念だね〜!由香里ちゃんの上も下も知らないなんて…!くそ童貞が!!」
罵声を吐くと久保田は突如、右の拳を慶介へ叩き込んだ。
骨と肉の軋むような鈍い音が鳴ると、慶介は後ろへよろめいたのだ。
続けざまにもう一発、左の拳が撃ちこまれた。
さらに、右の拳が振り上がる。
「やめて!」
由香里は血相を変え、大原の腕を振り払い、久保田の振りかざす手にしがみ付いた。
「木下君は関係ないの!暴力はやめて!」
由香里の中にあの日の光景が広がった。
密室でレイプされた日。
誰も助けてはくれなかった。
肉体も心も暴力に貶められたのだ。
「こんな事じゃ、僕は負けません!見ていてください!」
その声で由香里は現実に引き戻された。
慶介は笑っていた。
左右に頬に薄っすらとアザを浮かべながら、由香里に向けられる眼差しは偽りない真っ白な清らかさを持っていた。
すると、久保田は由香里を振り払い、猛然と拳を振り上げ、2発3発と慶介の顔面を殴打する。
慶介の顔は腫れ上がり、裂傷し、一筋二筋と血が流れた。
「今、ぼ…僕はそんなに汚いですか?」
その慶介の口を塞ぐようにさらに拳が重なる。
「ぼ…僕の顔を見てください!」
慶介はありったけの力を込めて由香里へ叫んだ。
次第に遠のく感覚。
久保田の拳が痛みに耐えきれなくなった時、慶介は膝から崩れ、床に倒れた。
ドサリ!と地下道に音が響く。
幸い、慶介は頭部から床に落ちる事を免れた。
間一髪、由香里が両手を伸ばし、慶介を受け止めたのだ。
ヒンヤリとしたコンクリートの上に由香里が座し、その膝の上で慶介は頭を横たえていた。
「な…なんで、こんな酷い事をするの!」
由香里は久保田を見上げ、避難の眼差しを向ける。
夢中で慶介を殴ったのだろうか。
あるいは、由香里の避難に対し、返答をさがしていたのだろうか。
彼は息急き、視点は茫漠として定まらなかった。
「もういい!」
絞り出し言う彼は、唾をゴクリと飲み込んだ。
「由香里、行くぞ!」
久保田が由香里の腕を捉え、引っ張った。
「ま、待って!」
由香里はそれを振り払い、慶介へと視線を落とす。
「先に行ってて…!すぐに行くから!」
すると、一つ間を置いた後、久保田は「ああ…!上で待ってる!」と言い残し、残りの連中と共に、地下道先の階段を上がっていった。
靴底がコンクリートの擦れながら歩く音。
その幾つもの折り重なる音が次第に遠く、小さくなってゆく。
由香里は慶介の顔を見ながら、それを聞いていた。
「い…行っちゃ…ダメだ…。」
微かな声ではあるが、慶介はうわ言のように言った。
彼は最後まで逃げなかったのだ。
傷だらけになり、腫れ上がった彼の顔を由香里はいつまでも眺めていた。

10月中旬。その日は、昨日までの雨天が嘘のように快晴だった。
青く高い空だった事が強く心象的に残っている。
風が優しく肌を撫で去ってゆき、行き交う人々の煩わしい足音が妙に優しく聞こえる。
胸が躍っている証拠だろう。
きっと自分の心が価値観を決めるのだ。
慶介は大きく息を吸った。
実は、なんと先日、由香里の方からデートの誘いがあった。
慶介の誘った食事を途中で断ったため、その埋め合わせをしたいとの申し出であった。
「阿部先輩から誘ってもらえるなんて夢みたいだなぁ…。」
慶介の表情が綻ぶと、いつぞや受けた頬の傷が痛むが、そんな事は些末であった。
気が付けば元の通りに戻っているのだ。
何もなかった様に…。
「あ!木下く〜ん!」
雑踏の中から手を振る姿が見えた。
慶介もそれに応え、手を振り返す。
彼女は真っ白なワンピースを着ていた。
その表情は満面の笑みで、太陽のようにキラキラとし、慶介に駆け寄った。


完。

                                                                     

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