〜阿部由香里先輩〜

「あの…よろしかったら、ここどうぞ。」
慶介は聞き覚えた声にふと、揺さぶられ顔を上げた。
透き通った少し高めの地声。
そこには、件の老婆に席を譲る女性の姿があった。
慶介はその席を譲る彼女の横顔に吸い寄せられた。
黒絹のセミロングを後ろに一つ束ね、可愛いらしい輪郭の耳に慶介は覚えがあった。
斜め後ろからの角度が故、顔は判らぬが、白色のヘアピンに確信を深める。
阿部先輩がいつも使っているモノと同じである。
部活に行けなかった青年を、神様が不憫に思ったか、なんと、慶介の想う人が目の前にいるのだ。
慶介は身体中の疲れが消し飛んだ。
心が波打ち、思わず席を立った。
その女性に近寄ると、その予想は決定的なものへとなる。
左の耳たぶに、小さな点ほどのほくろがあった。
(阿部由香里先輩に間違いない。)
彼女は左耳たぶに小さなほくろを持つ特徴がある。
「阿部先輩。」
声をかけると、彼女は振り向いた。
「あ、木下君!」
驚き、綺麗な二重瞼が、大きく弧を描いた。
「あれぇ?どうしたの。」
胸が締め付けられながらも、彼女の笑顔が慶介の中で大きな喜びとなって咲き、思わず、彼女を初めて見た日の感慨が鮮明に蘇る。
彼女の容貌には、最近人気の若手女優のふうがある。
高校生同士の純愛を描いた映画の主演を務め、脚光を浴びた映画だった。
慶介は、ずっとそのピュアな姿を、彼女に重ねて見ていた。
「いや…自分、バイトの帰りなんです。」
「あ、そういえば、今日いなかったもんね?小西君の家に…。」
慶介は由香里の目を直視できずに、視線をやや下げて逸らした。
まだ、女性との交際経験のない慶介は、その優しく照らす由香里の眼差しに、赤面して普通に出来なかった。
「ど、どうも、こ…こんばんはっス。」
言葉がしどろもどろになるのが情け無い。
自身の顔は恐らく、真っ赤になっている。
心臓がバクバク高鳴って、掴んだ手の中に汗が溜まっってゆくのを感じていた。
「いつも、土曜日はバイトなの?。」
由香里の可愛らしい声色に包まれる気がする。
「はい。」
「そっか、そっか。」
由香里は慶介の返事に納得するように、何度か頷いた。
慶介の頭が真っ白くなり、何を話していいか判らない。
(困った。)
彼女とは、普段から頻繁に会話しているわけではない。
(無難な話題が良いのだろうか。)
どうにも、考えが纏まらない。
「やっぱり、土曜日の部活って、小西部長が自分ちで、熱弁してるんですか?」
その言葉に、由香里の目が一瞬、点となった。
僅かに間があって、眉をハの字に歪め、彼女は、あはは…と、笑った。
瞼の輪郭が優しく下がり慶介を見つめた。
「そっか、そっか!」
由香里はまた頷いた。
先ほどの「そっか」とは少し意味合いが違う気がした。
「そうだよ…。」
由香里は屈託のない表情で、慶介の顔を覗く様に微笑んだ。
その後、暫くの沈黙を越して、電車は次の駅に滑り込んだ。
「あ、私はここで降りなきゃ。木下君はどこで降りるの?」
「自分、この次です。」
「そうなんだ。それじゃまた、月曜日学校でね。」
由香里が片手を上げ、軽く手を振った。
「はい。」
慶介は視線を交えられないまま会釈し、束の間の解逅を終えた。
由香里の後ろ姿に夢心地を引きずりながら、目を閉じた。
学校以外で、好きな人に会う事がとても、特別な事に感じられてならなかった。
学校では話す機会が得られず、眺めるが精一杯だった。
それが、たまたま、同じ電車に乗り合わせただけで、こうも自然に会話できたのだ。
慶介は、運命ってこういう事かもしれないと、反芻しながら、心を踊らせていた。
そういえば、今日いなかったよね。
その言葉にちゃんと、自分の事を見ていてくれた事を感じ、喜びもひとしおである。
それから、先輩の私服。
可愛らしく純白を基調にしたワンピースが脳裏に焼き付いた。
スカート丈も膝にかかる程度で、清楚な風采に心安らかにした。
ミニスカートに派手なメイクをしたギャル風に比べれば、彼女がどれほど上品な女性か。
慶介は傍らで、車内に係わらずメイクするギャルを半ば見下す様に一瞥した。


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