映画の主人公は遂に目指した絵画を手にした。
物語がクライマックスを迎えたのだ。
しかし、そのキャンパスには何も描かれていなかった。
愛を探し追い求めた果ての景色には、純白が敷き詰められていた。
それが亡き妻へ宛てた筆者の想いだった。
だが、由香里はあの日に大切なキャンパスを、どこかへ落として歩いてきたのだ。
由香里の真っ白な愛は黒く泥に汚された。
刺青の様に洗っても、拭い去れない汚れが染み付き、それが彼女の姿になった。
映画は終わっていた。
由香里は、二時間の内容は殆ど覚えていなかった。
外へ出ると、雨が降り始めてい、二人は傘を買い、挿して歩いた。
時刻は5時。
慶介は時計を見て、まだ、夕食にはやや早い頃合いではあったが、由香里を誘った。
「この近くに、旨いイタリアンがあるんです。」
慶介の由香里の反応を伺うような物言いに由香里は、頷き、微笑んだ。
後輩と肩を並べて表通りを歩く。
行き交う人の視線が、どこという事はなく、由香里を姿なでてまた、どこかへ消えてゆく。
次第に胸の中に雨雲の様な灰色が立ち込めていた。
由香里は恐怖とも絶望とも取れぬ軋轢がのしかかる。
それは雑踏の中でいつも感じている事だった。
必死に隠している私のキャンパスが無数の目に晒されている。
あの日からそんな焦燥が由香里を煽った。
私のキャンパスは醜く汚れているのだ。
誰にも見せたくはない。
人ごみの中でただ自分だけが、他人と違う汚点を背負っている負い目がある。
拭えぬ泥を隠す術があるとすれば、残った白地も全てを泥色に染め上げる事でしかない…。
その衝動が彼女のSEXとして突き動かしていた。
砂丘に埋もれた一粒の砂の様にそれは、見えなくなる。
誰の目にも、私の目にも…。
由香里達は、大通りを通り駅前に差し掛かった。
駅から溢れ出る人に紛れて周りの景色が見えなくなる程であった。
慶介は由香里を気づかい、彼女の姿を確かめながら歩いていた。
慶介が由香里を瞥見した時、安心したか、ホッとした表情を覗かせた。
歩みの速さを緩め、再び由香里の横に並んだ。
もし、これが恋人同士なら、彼は彼女の手を握ったかもしれない。
「先輩…大丈夫ですか?」
騒然の中で、彼の唇がそんなふうに、動いた。
彼の気持ちは知っている。
由香里は慶介を眺めながら、あの日までの自分を重ね映した。
目の前の彼は真っ白だった。
そして、同時に私の失ったモノを持っていた。
それは尊く、由香里の手が触れてはいけない純粋な色をしていた。
私の手はもう、泥色なのだ。
駅前を抜けた時、彼が言った。
「もうすぐですから。そこの角を曲がるとあるんです。」
そうだった。
これから、食事をしに二人は歩いている事を由香里は不意に思い出した。
「ねぇ!木下君。」
由香里が立ち止まって慶介を呼んだ。
飛び交う雑音に負けない強い声だった。
「私、用事思い出しちゃった。」
その一言がズシリと、慶介の胸に響いた。
「ごめんなさい。帰らなきゃ。」
そう言った彼女の表情はなぜか泣きそうな顔に見えた。
いや、照りつける日差しの角度がそう見せたのだろうか。
「もう、すぐですから…。」
慶介は困惑した。
次で決着をつけようかと考えていた。
映画の話をしながら、彼女の反応を見るのが、一番分かりやすいものと思えた。
しかし、由香里は踵を返し体を翻した。
「せ…先輩…。」
駅へ引き返す由香里に、小走りで近寄った。
「だったら僕、途中まで送りますよ。」
そう言い、今来た道をまた、二人で引き返した。
いや、慶介が由香里の背中に付いて歩くだけなのだ。
それからの、二人の間には無味乾燥な時間が横たわった。
切符を買い、改札からホームへ降りる二人に会話はなかった。
電車は休日故か、やや混んでいた。
吊革に掴まる由香里の俯いた横顔に、つられ、慶介も俯いた。
心は正直だった。
やはり、阿部先輩といるとそれだけで、嬉しかった。
掲げた目的も果たす事なく、家路へ向かう自分の情けなさに呆れると共に、由香里への偽りない無垢な想いを改めて感じた。
好きだ。
今日の夢見を名残惜しく感じ、由香里の横顔に見入った。
電車が駅に着き、扉が開く。
由香里は慶介を見た。
そして最後にニコリと笑った。
「また、2人で遊べるといいね。」
その言葉は慶介の胸に悲しく影を落とした。
また、誘ってね。ではないのだ。
希望的観測は成熟しない事を、慶介は薄々と分かっていた。
「ありがとうございます。」
今日のお礼として、後輩は頭を下げた。
由香里がホームに降り立ち、後ろ姿が小さくなっていく。
――だだ今、電車の発車時刻調節の為、もう一分少々停車いたします。
声を鼻にかけたアナウンスが車内報告を告げていた。